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私の景観論

 愛媛県西南地域、肱川流域の大洲市と、長浜、肱川、河辺の3町村が今年1月11日に合併、新・大洲市が誕生した。1ヵ月後、2月13日の市長選挙で、大森隆雄氏が合併後の初代市長に就任した。頻発する洪水、人口減少など難問を抱えてはいるが、議員歴7期26年、地域の隅々まで知り尽くしている実力者に、「きらめき創造、大洲市」へ舵取りの期待がかかる。昨年9月に念願の大洲城天守閣が落成。今年5月には景観行政団体になった。

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 「合併して面積はほぼ倍になった。各地域とも特徴があり、景観面でいえば、長浜地区は、現役で日本最古の道路開閉橋(通称・赤橋)のある港町。農山村地区の河辺には屋根つきの橋(浪漫8橋)がまとまって残っている。大洲の市街地には、お城、川、明治・大正期の町並みがあり、保全、再生、創生といった観点から、住民と一緒に風景、景観を維持していく制度、仕組みを考えたい」と意欲を見せる。

■肱南地区の町並み 河川景観を先行
 このうち、緊急を要するのが旧大洲市肱南地区の町並みと河川景観の保全。2006、07年度で景観計画を策定する方針だ。

 肱南地区の一角には、明治・大正期の町並みを残した“おはなはん通り”がある。1966年、NHK朝の連続小説「おはなはん」で、この肱南地区の町並みが舞台になったのを契機に名づけられた。その後、建物の老朽化が進み、景観が損なわれてきたため、補助金交付の要綱を策定した。「おはなはん通り周辺の物件については、ファサード整備の充実を図るために要綱をつくり、毎年1000万から1500万円を予算化している。限られた予算だが、住民が生活をしている地域での取り組みだけに、建物所有者、居住者の理解が大切」と話す。

 産業構造の変化に伴い、大洲市はいま、その過渡期にある。大洲道路の開通で、東大洲の拠点地区、そして肱南地区の歴史・文化エリアという構図が明確になった10年前から、若い職員チームが大洲のまちづくりの具体的な方向を考えてきた。

 「景観形成を目的に、手段として交流人口の拡大、観光振興をめざすまちづくりの検討を進めてきた」と経緯を語る。

 昨年9月、旧大洲市の市制50周年に合わせ、念願の大洲城天守閣が落成した。純木造の4層4階建て。復元天守としては戦後最大級だ。

■町並博で元気出た民間との連携活発
 その大洲城を目玉の一つとして、大洲、内子、宇和を拠点に、昨年、パビリオンを持たない博覧会(えひめ町並博2004)が開催された。春から秋の開催期間中、観光客が急増した。「元気が出る」と同博の後継事業を担う協議会も組織された。まちづくり第三セクターや民間との連携、住民の動きも活発化している。

 今月15日には合併記念式典が盛大に開かれた。

 「私の子供の頃は、肱川でよく泳ぎ、川えびなどを獲って遊んだ。橋の上から下を見ると、足がすくむくらい透き通っていた。コイやアユも多く、鵜飼は今も大洲の名物になっている」と当時を振り返った。

 大洲地域は歴史が古く、紀元前1万年頃から人が住み始めたとされている。温暖な気候、肥沃な土地、恵まれた風景。伊予の小京都と呼ばれる景観。「問題は大雨が降ると川が暴れる。蛇行する川、市街地でも海抜9m程度の地形で、昔から洪水に悩まされてきた。昨年8月末の台風16号では、東大洲地区が広範囲に冠水。今年も2回水害に見舞われた」と、治水には頭を痛める。

 国土交通省によると、肱川は、上中流部に宇和、野村、大洲の盆地が開け、下流部では両岸に山脚が迫る。流域面積、延長は55位、50位だが、流域の支川数は475(5位)。全国でも珍しい流域を形成している、という。1943、45年の大水害のあと、旧建設省の工事事務所が大洲に設置された。野村、鹿野川の2つのダムがつくられたが、なお、治水安全度は低い。安全の確保とともに、かつてのような豊富で清冽な流れの復活を図るのが悲願。

 「3つ目のダム(山鳥坂ダム)を河辺地区に、治水専用でつくる計画。早期実現をめざしている。同時に、景観を担保し、交流人口の拡大と、経済活性化を産業の柱にしていく」と言い切った。

2005年11月28日付『建設通信新聞』より

伊予の小京都に清冽な流れ復活
大洲市長 大森隆雄
明治・大正期の町並みを残した“おはなはん通り”
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